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チベット応援団ブログ 渡辺一枝さん(作家)

タシデレ!

チベット応援ブログ、第3回のゲストは作家の渡辺一枝さんです。一枝さんは保育士を退職後から長年チベットに通い続け、現地の人々の心と生活に寄り添い、ありのままの姿を文章と写真で記録してこられました。いくつかの質問を通して、一枝さんが出会ったチベットの魅力に迫っていきます。一枝さんが撮影されたチベットの美しい写真も必見です!

チベットに通じることがパズルのようにはまっていった

チベット人は鳥葬をする

チベットにのめり込んだきっかけ、関わることになったきっかけはなんですか?

幼い頃から凄くチベットに関心があったんですけど、私自身が知りたいチベットって、本を読んでもなかなか書いて無くて、どんなところかわからなかったんですね。当時は宗教関係か探検家の本しかなくて。チベットの人たちの日常的な暮らしが知りたくて通いだしたんです。

中学生の時、当時京都大学の助手だった川喜田二郎さん達が西北ネパールのドルポに学術探検調査に入られて、調査報告が中学2年生の時の新聞に載ったんです。そこに大きく取り上げられていたのが「チベット人は鳥葬をする」って記事だったんですね。それを読んで初めて私はチベットの文化や風習を知って、それらに強く惹かれたの。特に鳥葬について。

大人になって振り返ってみると、後知恵なんですけどね。私はハルピン生まれなんだけど、私が生まれた半年後に父は現地招集されて、そのまま帰ってこなかった。子供の頃は行方不明って聞いてたんですけど、中学生の時、訪ねてきたお客さんに母が、父と同じ部隊にいた人から伝えられた父の最期を話すのを一緒に聞いたのです。敗戦後、部隊がいたチチハルからハルピンまで、300kmくらいかな。父はずっと怪我をした仲間を背負って歩いていたんだけど、前を歩いていた仲間が振り返ったら、もう父の姿は無かったんだって。湿地帯に沈んだのだろうって。その話を聞いた時に、チベット人は鳥葬をするっていうことと父の死が結びついて。ただ野垂れ死ぬんじゃなくて、鳥葬のように葬られたらよかったなぁと、たぶん中学生の私にそんなふうに響いたんじゃないかな。それでものすごくチベットに惹かれたのね。

 

その後大人になって、会社を辞めて保育士をやっていたんだけど、わたしもそろそろ仕事を辞めたいと思い、次に新しく入園してくる子どもたちを産休明けから受け持って担任を持ち上がっていって、その子たちが卒園する87年の3月に一緒に辞めようと思ってた。その前の年に、私が大好きな物理学者のライアル・ワトソンと博物学者のフリッチョフ・カプラが同時期に来日して、高野山で公開シンポジウムが開かれたの。それを聴きに行く機会があって、会場で配られた資料の中にチベットのツアー旅行のチラシが入っていて。日付を見たら87324で、それなら卒園式を25日にすれば翌日からチベットに行ける!と。

子供の時からたまたまチベットに通じることが重なって、パズルのようにはまっていきましたね。

やっとチベットに受け入れてもらえた

チベットの本を書くことになったきっかけは何だったのですか?

その頃椎名はたびたび長く家を空ける取材が重なっていて、椎名関係の問い合わせに私が疲れていたので、椎名は私が保育士の仕事の他に打ち込めることがあった方がいいっていうんで、知り合いの編集者に「一枝に本書かせてみたら?」と言ったんです。私は野の草花が大好きだったから、それなら書けるかもしれないと書き出して、それが本になったのが86年の1月。それが最初で、「本を書くなんてのはこれ一度だけよ」って夫にも編集者にも言ってたんですけど、本になってみたら「あ、わたしもっと書きたいことがあるみたい!」って、その後書いていったのがエッセイだったんですね。

でも、チベットや満州に通い出してからは、エッセイは書けなくなりました。だけどチベットのことはなかなか書けなかった。チベットに行ってもなかなかチベットの中に入れなかった。例えば車で走っていて、向こうの方にヤクのテントがあるのを見て「ちょっと停めてください、あの人の話聞きたい」って言ったらガイドに「あなたの目にはここからあそこまで200mに見えるかもしれないけど2kmありますよ」とか断られたり、食事をするために停まったところでチベット人の話を聞きたいと思っても、ガイドも現地チベット人も私の質問とそれへの答えをその通りに伝えることが政治的に難しかったりで。ガイドブックにある観光旅行のように見ることはできても、中に入り込むというか、受け入れてもらうことがなかなかできなかったんです。

でも馬で行った時に、幹線道路から外れて小さな集落とかテントとかできる限り訪ねながら旅して、そこで初めて私はチベットの中に入れた、受け入れてもらえたって感じて、「これでやっと私、チベットのことを書ける」と思いました。チベットを書きだしたのはそれからなんです。

ダワの卵

チベットの方と長く交流されてきた中で、印象的だった出来事はありますか?

さっきも話した鳥葬ね、すごく親しくしていたチベット人のお葬式に立ち会っていて。その人の息子、遺児がその後どうなったかっていうのは、ものすごく私の中で大きくありますね。

亡くなった彼は「ダワ」という名前で、病気で働けなくなった時から息子の「タシ」の小学校時代から学費の援助をずっとしてきてたんだけれど、タシは高校を途中で辞めてしまったのね。でも彼の家族と親しくて私自身も全幅の信頼をおいている人に、今後タシが仕事するのに運転免許証など資格を持っていた方が良いと思って資格取得のためにお金を預けてたの。で、その後しばらくして彼は軍に入ったのね。私は軍隊に入ったのか…ってがっかりしてたんだけど、森林警備隊に入ってなんか鍛えられたみたい。本当にしっかりしたいい青年になって、お母さんのことも助けて、結婚して今は子供が二人いる。

父親のダワはずっと闘病生活してたんだけど、末期で病院から家に帰っていた時に私はまたチベットに行き、ダワを見舞った。その時に私が「ラモラツォからガンデンへの巡礼に行ってくるね、帰ってきたらまた会いにきます。タシのことは私がちゃんと面倒見るから心配しないでいいよ」って言って。で、巡礼に出かけて今日これからラサに戻るという朝に亡くなったって電話があって。ラサに戻ってすぐ家に行ったら、お葬式に集まってた人たちが私を見て「これダワから一枝に渡してくれって頼まれたんだ」って。それがね生卵なのよ。

ダワの実家は何年か前に行ったことがあって、農業なんだけど鶏も放し飼いで飼っていて、ごちそうになった卵が凄く美味しくてね。美味しい美味しいって食べてたら、それからラサに行くたびに、実家から卵取り寄せてゆで卵にしたの持ってきてくれたりしてた。その卵を生でもらったの。私がタシのことは任せて安心してなんて言っちゃったから、なんだか引導を渡しちゃったみたいな気がして、そういうこともあって、ダワとタシについてすごく私の中でちょっと、何て言ったらいいんだろ…なんか一つの気掛かりになってますね。

つくろわないで素のまま生きていく

チベット人といると、生まれたままの気持ちでいられる

チベットに関わるようになってご自身の中に変化が起きたことはありますか?

初めてチベットに行った時、ホテルの外を歩いていたら畑で種をまいているチベット人たちがいて、一緒に仕事をやらせてもらったり、お寺の門前でお参りに来たチベット人と触れ合ったりで、チベット人たちと一緒にいると、私は素のままでつくろったりせずに生まれたままの気持ちでいられると感じて。なぜチベット人といるとこうなんだろう、チベット人ってどういう人たちなんだろうというのを知りたくてずっと通っているんです。

そういう中で、どこにいてもつくろわないで素のままで生きていくという風に私自身変わってきたと思います。何度も通う中で、チベットだけでなくどこにいてもそういう自分になることができてきたなと自分でも思います。

 

私のチベット料理「トマ」

最後に、印象的だったチベット料理を教えてください。

私ね、トマが大好きなの。チベットではご飯に炊き込んでトマデェシにしたり、スープに入れたり、いろんな食べ方をしますよね。

初めてチベットに行った時に、レストランでトマデェシが出てきて、えーチベットにもお赤飯があるんだって思ったの。後から知ったんだけど、それが実はトマデェシだったの。その後自分でトマを手に入れて炊いてみたら、あれ炊いてみると小豆の匂いがしてくるのよね。ほんのり甘くて。今でも大好きです。

 

 

好奇心と愛情を持ってチベットを楽しまれてきた一枝さん。チベット人を語る時のあたたかな眼差しがとても印象的でした。

渡辺一枝さん、ありがとうございました!

 

渡辺一枝さん プロフィール

渡辺一枝(わたなべいちえ)
1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。

 

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